フェミブリッジにおける「男が産めるのうんこだけ」発言に抗議する
2025年3月31日、私たちは新宿駅東南口前で、ささやかな展示を行なった。
縦に置いたスーツケースの上のわずかなスペースに、トイレットペーパーと、ぐるぐるととぐろを巻いたブルーとピンクの大便。
説明書きとして、下記の内容の文を添えた。
排泄物の色に、男女による違いはありません。
それと同様に月経や妊娠という現象、そして出産という行為についても、男女による違いはありません。
「男が産めるのうんこだけ」という発言は性差別であり、特に男性トランスジェンダーに向けられたヘイトスピーチです。
私たちは、あらゆる性差別を憎み、その試みに反対します。
2025年3月31日
国際トランスジェンダー認知の日
フェミニス虎
私たちは、どうしてこのような展示を行なったのか。
それは、3月9日に同じ場所で行われた市民連合主催の「フェミブリッジ・アクション」の街宣集会において披露された、コール・パフォーマンスに対して抗議の意思を示すためである。
このパフォーマンスは、妊娠・出産を経験する個人の自己決定権を蹂躙しながら進められてきた政府の人口政策を批判しつつ、ジェンダー平等の意義を、男性中心主義への激しい怒りと共に歌い上げるものであった。(註1)
「男が産めるのうんこだけ」とのフレーズはその中の一節としてこの日、街路を行き交う公衆の面前で唱えられたものである。
それは、3月9日に同じ場所で行われた市民連合主催の「フェミブリッジ・アクション」の街宣集会において披露された、コール・パフォーマンスに対して抗議の意思を示すためである。
このパフォーマンスは、妊娠・出産を経験する個人の自己決定権を蹂躙しながら進められてきた政府の人口政策を批判しつつ、ジェンダー平等の意義を、男性中心主義への激しい怒りと共に歌い上げるものであった。(註1)
「男が産めるのうんこだけ」とのフレーズはその中の一節としてこの日、街路を行き交う公衆の面前で唱えられたものである。
(「こばと通信 -声を上げる市民」配信)
「フェミブリッジ・アクション」は、第二次安倍政権による親米安保政策の抜本的強化と憲法改変の策動を阻止するために、市民運動諸団体が野党との共闘を図るべく設立された「市民連合」(註2)によって行われているプロジェクトで、2023年より「女性の声で政治を変えよう」をスローガンに、開催を重ねてきた。(註3)
「フェミニストの架け橋」という意味(フェミニスト&ブリッジ)を込めて命名されたというこのキャンペーンは、たとえば昨夏の東京都知事選においては、現職候補者であった小池百合子に対する有力な対抗候補と目されていた蓮舫の支持を拡大するために取り組まれ、注目を集めた。
この日3月9日の集会でも、複数名の野党政治家が招かれ、それぞれスピーチを行った。(註4)
今夏に参院選を控える中、8日の国際女性デーの翌日に行われたこの集会は、昨年の衆議院選挙で少数与党に転落した自公政権を更に追い込み“政権交代”を実現するため、“共闘”する相互にとって重要な集会であったと言えるだろう。(註5)
件の差別発言は集会の終盤に発せられた。
会場に集まった参加者へのレスポンスを求めながら行なわれたこのパフォーマンスは、差別扇動行為と言って然るべきものだ。
私たちは以下、三点についてを指摘し、このパフォーマンスの問題を告発する。
「男が産めるのうんこだけ」という一文は、「男」は「うんこ」以外を “産まない” という内容を述べているのであり、これは出産を行う者を男性として認めないと言うのと同義である。
このような明白な差別扇動が「フェミニズム」の名の下に公然と為されたことは言語道断と言う以外になく、フェミニストを自任する者ならば、これは戦慄をもって迎えられるべき事態である。
そしてそれはまた、コール全体に充満する男女二元論的筆致とも併せて斟酌するならば、「男」以外の存在とは「女」であるとの解釈を、容易に導かせるものだろう。(註6)
つまり、このパフォーマンスは男女二元論に無批判のまま依拠しており、それは黙示のうちに「女」を生殖に隷属させ、妊孕能力の有無によって序列づけているのである。
こうした言説はフェミニズムであるどころか、全く反対物たる家父長制支配の手法そのものと言うべきものであり、許し難い女性差別と言わざるを得ない。
また、こうした女性差別的態度は同時に、甚だしいシスジェンダー中心主義でもある。
女性を妊孕性の有無によって序列化せんとするこの発言は、その能力を欠く女や女性トランスジェンダーの尊厳を踏み躙り、ノンバイナリーの存在を抹消する行為として、厳しく糾弾されるべき行為である。
排泄は、人がその生命を維持するうえで欠くことができない必須の行為であり、それは誰もが避けては通れない営みである。
にも拘わらずこのフレーズは、それとは別の指標たる出産という行為を持ち出して人を評価し、出産を しない/できない 者を卑しめるものだ。
これは特定の生の在り方だけを特権化する能力主義の態度であり、それはいずれ病や障害を設けられた者を排除する「健常」主義へと帰結するだろう。
「フェミニストの架け橋」という意味(フェミニスト&ブリッジ)を込めて命名されたというこのキャンペーンは、たとえば昨夏の東京都知事選においては、現職候補者であった小池百合子に対する有力な対抗候補と目されていた蓮舫の支持を拡大するために取り組まれ、注目を集めた。
この日3月9日の集会でも、複数名の野党政治家が招かれ、それぞれスピーチを行った。(註4)
今夏に参院選を控える中、8日の国際女性デーの翌日に行われたこの集会は、昨年の衆議院選挙で少数与党に転落した自公政権を更に追い込み“政権交代”を実現するため、“共闘”する相互にとって重要な集会であったと言えるだろう。(註5)
件の差別発言は集会の終盤に発せられた。
会場に集まった参加者へのレスポンスを求めながら行なわれたこのパフォーマンスは、差別扇動行為と言って然るべきものだ。
私たちは以下、三点についてを指摘し、このパフォーマンスの問題を告発する。
1、男性トランスジェンダーに対する差別
まず第一に、これは直接に男性トランスジェンダーの尊厳を踏み躙る行為である。「男が産めるのうんこだけ」という一文は、「男」は「うんこ」以外を “産まない” という内容を述べているのであり、これは出産を行う者を男性として認めないと言うのと同義である。
このような明白な差別扇動が「フェミニズム」の名の下に公然と為されたことは言語道断と言う以外になく、フェミニストを自任する者ならば、これは戦慄をもって迎えられるべき事態である。
2、女性差別とジェンダー二元論
第二に、この発言は暗に「男」以外の存在を生殖権力の下に拝躓させるものだ。そしてそれはまた、コール全体に充満する男女二元論的筆致とも併せて斟酌するならば、「男」以外の存在とは「女」であるとの解釈を、容易に導かせるものだろう。(註6)
つまり、このパフォーマンスは男女二元論に無批判のまま依拠しており、それは黙示のうちに「女」を生殖に隷属させ、妊孕能力の有無によって序列づけているのである。
こうした言説はフェミニズムであるどころか、全く反対物たる家父長制支配の手法そのものと言うべきものであり、許し難い女性差別と言わざるを得ない。
また、こうした女性差別的態度は同時に、甚だしいシスジェンダー中心主義でもある。
女性を妊孕性の有無によって序列化せんとするこの発言は、その能力を欠く女や女性トランスジェンダーの尊厳を踏み躙り、ノンバイナリーの存在を抹消する行為として、厳しく糾弾されるべき行為である。
3、優生思想と健常者至上主義
第三に、この発言は能力主義を内包している。排泄は、人がその生命を維持するうえで欠くことができない必須の行為であり、それは誰もが避けては通れない営みである。
にも拘わらずこのフレーズは、それとは別の指標たる出産という行為を持ち出して人を評価し、出産を しない/できない 者を卑しめるものだ。
これは特定の生の在り方だけを特権化する能力主義の態度であり、それはいずれ病や障害を設けられた者を排除する「健常」主義へと帰結するだろう。
市民連合および「フェミブリッジ・アクション」は、これが差別扇動のパフォーマンスであることを認め、その過ちを正すべきである。
また、特に「フェミブリッジ・アクション」を推進する者は、自分たちの説く「フェミニズム」が同質性の強調によるマイノリティへの抑圧として機能していることを省み、インターセクショナリズムの視点から今一度思想を練り上げるべきだ。(註7)
なお、このパフォーマンスが男性中心主義に対しての告発として行われたという事情は、これらの差別扇動行為を何ら正当化しない。( 註8 )
私たちは、この差別パフォーマンスに対して強く抗議するとともに、市民連合および「フェミブリッジ・アクション」の解体的自己切開を求める。
また、特に「フェミブリッジ・アクション」を推進する者は、自分たちの説く「フェミニズム」が同質性の強調によるマイノリティへの抑圧として機能していることを省み、インターセクショナリズムの視点から今一度思想を練り上げるべきだ。(註7)
なお、このパフォーマンスが男性中心主義に対しての告発として行われたという事情は、これらの差別扇動行為を何ら正当化しない。( 註8 )
私たちは、この差別パフォーマンスに対して強く抗議するとともに、市民連合および「フェミブリッジ・アクション」の解体的自己切開を求める。
註1 問題の発言箇所は、動画1時間3分ぐらい〜。
註2 市民連合は、その正式名称を「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」といい、2015年12月に
「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」、「安全保障関連法に反対する学者の会」、「安保関連法に反対するママの会」、「立憲デモクラシーの会」、「SEALDs」の5つの団体の有志の呼びかけによって結成された。(市民連合公式サイトより)
”そもそもですね、フェミブリッジ・アクションとは何だ、という話なんですけども、市民連合とは全く別組織、ではなくて、市民連合の中の取り組みの一環として、今回のフェミブリッジアクションを行なっています。”
註4 集会にてスピーチを行なった各政党政治家の本件についての釈明は、次の通りである。なお、よだかれん(れいわ新撰組)は動画配信を通じて所感を述べた。以下にその一部を抜粋する。下記動画25分57秒~より。
”勇気をふりしぼって殴り返そうとした女性達を責めないであげてほしい。そっちを攻めるんじゃなくて、日頃彼女達を殴り続けているミソジニストの男性達に対して、声をあげてほしい。”
註5 この日の集会においても選択的夫婦別姓制の実現の訴えが頻繁に叫ばれていたことは、改めて注目されるべきことだろう。2024年秋の衆議院議員総選挙によって少数与党体制となった石破自公政権のもと、長年に渡って日本フェミニズム運動の悲願とされてきたと言ってよい選択的夫婦別姓制の立法は、いよいよ現実味を帯びて語られる状況となったが、一方それを支える「ジェンダー平等」の理念の内実は今、その実現を説く者達によってどのようなものとして理解されているのか。フェミブリッジにおける差別発言は、日本の多数派「フェミニスト」の内心を図らずも露呈させてしまったものであるようにも思われる。
註6 例えばこの一連のコールにおいて頻繁に連呼されたフレーズのうちの一つは、「いちいち女を追い詰めるなよ」というものであった。「男」と「女」だけが登場するテクストにおて、「ジェンダー平等」がどのような意味の言葉として機能するのかを考えられたし。
註7 集会中、沖縄県出身者より米軍基地の負担を強要されている沖縄の現状と、それによってもたらされている米軍人などによる性暴力事件の問題が訴えられた。(掲載動画10:09〜。)それは、本土におけるフェミニズム運動の均質性と植民地主義を告発するものであったと考える。このような発言があった同じ空間において尚、問題の差別発言が為されたという事実を、「日本」のフェミニズム運動は直視するべきだ。以下にその一部を抜粋する。
”「日本の政治を変える」という言葉の「日本の政治」の中に、沖縄が含まれていないと感じています。「日本のフェミニズムの運動の中に、沖縄が含まれていないと感じています。「日本の政治の中に、日本の女性の中に、沖縄の女性を入れてください。沖縄を入れてください。沖縄を排除しないでください。沖縄から目を背けないでください。”
註8 本件コールパフォーマンスにおける差別発言について、それが女性を抑圧する男性中心主義に向けられたものだという理由をもって対抗暴力として正当化すべし、との抗弁が散見される。コールにおいて度々連呼された「男は黙れ」の一語を以ってその他の落ち度を赦免するよう迫るその論法は、いわば「対抗暴力の違法性阻却論」とでも言うべきものだ。仮に上記の抗弁にその理を認めるとしても、ならばこの度のフェミブリッジのおけるパフォーマンスがその行使にあたって、その正当化の要件を満たしていると言えるのか、説明される必要があるだろう。新宿駅東口前という、不特定多数の人が通行している街路において(実際にはインターネット空間への発信の威力が絶大であっただろう)、満天下に向かい「男」に宛てて吐き出された暴力。しかし実態として、その暴力の対象は無差別だ。男性トランスジェンダーの尊厳を踏み躙り、女性を妊孕能力の有無によって切り分け、性別二言論によってノンバイナリーの存在を抹消しながら、「男」に向けて行使されたという「対抗暴力」は、本当に正当化可能なものなのか?そしてそれは、本当に「男」に打撃を与えたのか?それらの成果は、「市民と野党との共闘」を強化するのに役立つものだったのか?フェミニズムと議会の「橋渡し」によって、「女性の声で政治を変え」ることに資する行為だったのか?仮にこの差別パフォーマンスを<対抗暴力>として戦術的に正当化するというならば最低限、それを採用するための要件と、実際に発動された場合の損害、期待される「成果」がどのようなものなのか、具体的に説明されるべきだろう。