ウィメンズマーチ東京2026で連帯のスピーチをしました
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| 連帯スピーチにのぞむフェミニス虎 (「ウィメンズマーチ東京2026 オンライン集会」アーカイブ配信 より) |
3月8日(日)、国際女性デーのこの日。
午前10時から開催されたウィメンズマーチ東京2026オンライン集会にて、当会は連帯スピーチを行いました。
※動画 1:11:54~。
「ウィメンズマーチ東京2026 オンライン集会」アーカイブ配信
(ウィメンズマーチ東京 YouTube チャンネル より)
下記に、当日のスピーチ原稿を掲載します。
どうぞご覧ください。
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| 当日のスピーチ原稿 |
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ウィメンズマーチ東京2026の開催、おめでとうございます。
私たちフェミニス虎は、フェミニズム運動におけるシスジェンダー中心主義の転換を目指して活動する非シスジェンダー、<トランスジェンダー>の集まりです。
フェミニストであり、かつトランスでもある私たちは、女性はもちろん、あらゆる個人が抑圧から解放され、真に自分のジェンダー=セクシュアリティを生きられる社会の実現を目指し、活動しています。
私たちはフェミニス虎、「フェミニスト=トランス」なのです。
そのような私たちは、本日の国際女性デーにあたって、やはり「フェミニスト・トランス」として、皆様に申し上げたいことがあります。
次の一文は、本日の国際女性デーに際して発せられた、あるフェミニスト達による呼びかけの一節です。
"日本初の女性首相高市氏は、サッチャーと同じく「男性化した女性」でしかありません。" (註1)
このような言葉は、日頃、トランスジェンダーの生存を切り崩すための常套句として用いられているものであることを、私たちは知っています。
あるいは先日の選挙期間中、上野千鶴子さんがSNSで、高市総理大臣を指して「女装した家父長制」と述べたことを、思い出す方もいるかもしれません。(註2)(註3)
この「女装した家父長制」という言葉は、2000年に出版された上野さんの著書にあるものですが、わざわざ「transvestite
patriarchy」と英語並記のうえで、この語が記されています。(註4)
「transvestite」とは異性装のことです。
かつてこの語を「女装」と訳した上野さんの攻撃は、今、高市早苗という人物が女性であることそのものを否定するために、行われているているものだと言えるでしょう。
一体このような、しょーもないハラスメントの言葉で、今やファシズムの幻想に取り憑かれてしまっている人々の目を覚ますことができるでしょうか?
必要なことは、高市政権によって、いかに多くの女性が権利と尊厳を踏み躙られているのかを率直に、粘り強く人々に訴えることであり、決してその者がどのように「女性」であるのかを品評することではないはずです。
このような言葉がもたらしてきた、フェミニズム分断の歴史。トランスジェンダーへの差別と排除の歴史。
それを軽ろんじる態度を、私たちは決して見過ごしません。
女性を、「女性性」の下に囲い込むことで団結を促そうとする運動に、私たちの解放はありません。
セクシズムによる団結ではなく、セクシズムからの解放を、私たちの抵抗の基軸に!
フェミニズムの前進のために、共にがんばりましょう!!
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フェミニス虎
2026年3月8日・国際女性デー
ウィメンズマーチ東京オンライン集会にて
***
註
※当日のスピーチの内容を補足するために、以下の註書を付け加える。(2026年3月10日)
註1
”日本初の女性首相高市氏は、サッチャーと同じく「男性化した女性」でしかありません。「女性の休日」の運動から派生したアイスランドのクリストルン・フロスタドッティル首相や、台湾で初の同性婚制度を制定した蔡英文総統のように、女性たちの連帯や運動の中から生み出された女性リーダーとは異なります。私たちは、そのようなリーダーを生み出すべきでしょう。”
これは、2026年3月8日開催のウィメンズマーチ名古屋(@Nagoya88998879)の呼びかけ文として掲載されたものである。当日の呼びかけ全文は、下記ページに掲載された画像より、を確認できる。
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ウィメンズマーチ名古屋 わたしたちは、「ここ」にいる!【日時】2026年3月8日(日曜)17:30~
註2
"その昔、日本文化論を書いて「女装した家父長制」と名づけた。高市首相を見ているとぴったりな気がする。"
(上野千鶴子(@ueno_wan)によるtwitter投稿(2026年2月3日)より)
註3
当時、上野によるこの発言が招いた波紋を、伝える報道もあった。
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【衆院選】高市首相めぐり「女装した家父長制」と表現 女性社会学者の投稿が波紋
(日刊スポーツ、2026年2月5日)
註4
"「母性」の名における家父長制支配、とりわけ「自己犠牲する母」「自虐する母」の姿を借りた母の代行支配は、「女装した家父長制 transvestite
patriarchy」と呼んでいいかもしれない。その「女装」のおかげで「父」は不在を決め込み、無責任を装っていられる。子どもの側のルサンチマンと攻撃の矢面に立つのは「母」の方だが、「母」の献身を誰よりも搾取しているのは「不在の父」である。そしてこのメカニズムをつうじて、「母」は息子を次の世代の自己中心的な「父」へと、娘を自分と同じような自己犠牲的な「母」へと再生産しようとする。それに対して、「不機嫌な娘」がノーを言ったとして、誰がそれをとがめることができるだろう。"
(上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』(朝日新聞社、2000年)p125 より)

